問はずがたり

惰性の賜物

善行

 善行についての持論。


善意所以の行為(善行)というのは、通常悪意に対して非常に脆く弱い。善意というヒトの価値観を通じて生じる意思というのは、ひどく恣意的であり、受け取り手のモノの見方と決して同一でない以上、考えた通りに事が運ばれないことが多い。ヒトの意思に基づいて行動しているため、推測したように自己の行為がはたらかなければ、落胆もするし憤怒もする。落胆や憤怒というのは、行動に隠れた好意を跳ね除けたり、相手に向けた自分なりの優しさを受け取らなかったり、というような『悪意』を受けて、生じ得る。


期待を孕んだ善意という非常に脆弱なものがある一方、悪意と対峙しても決して折れないような意志、そこから派生する行為もある。まず考えられるのが、善意のない善行である。善を全うしようという意思が全くなく、呼吸をするかの如く行動すれば、例え他者の悪意とぶつかったとしても、期待もなく恩を着せようとする意図もない為、マイナスの感情へと繋がりづらい。ただし、以上のような善行(自己の善悪の基準を通じない行為)というのはある種人智を超えたものであり、通常ヒトには出来かねるように見受けられる。意思がないということは、無我の境地に達して初めて出来るからだ。

 さらに、もう一つの悪意に対して耐性を持つ善意として、偽善というのが考えられる。ここで言う偽善というのは、自己の価値観・認識等を偽るということである。具体的に例示するとすれば、ヒトの為になるはずがないと行動に及ぶ前に割り切っておくか、もしくは、ヒトが受け取らなかった後、それは自分の意思によるものではなかったと自分に言い聞かせることが考えられる。偽物であるが故に、本物よりも柔軟性に富み、本物よりもより強固である。